海外各地の旅行先で出会った鉄道風景を紹介します。日本国内の話題も時々。

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20系臨時寝台特急・「明星」


国鉄が民営化され、JRが誕生した1980年代後半。この頃すでに第一線を退き、細々と余生を過ごしていた20系客車ですが、多客期にはまだ臨時寝台特急として活躍していました。そのひとつが新大阪ー西鹿児島間を走った「明星」です。同区間を走っていた定期列車「なは」の続行として運行されていました。「なは81・82号」とならなかったのは、「母屋を貸して庇を取られてしまった」列車名への、せめてもの慰めというところだったのでしょうか。

当時の編成は、宮原区所属の20系7両 (カヤ21 - ナハネ20 x 5 - ナハネフ22または23) から成っていました。最後尾にナハネフ22かナハネフ23のどちらが充当されるかは、シーズンごとにランダムに決められていたようです。上下列車用に都合2編成が必要ですが、ナハネフ22と23が1編成ずつのときもあれば、2編成ともどちらか一方となる場合もありました。更に、同じナハネフ22・ナハネフ23でも、車両によって帯の入り方が異なっていたり、またテールマークにも複数の異なったデザインが使用されていたりしていました。

当時、20系客車にご執心だった私は、それらすべての組み合わせを記録に収めようと、連休シーズンが来るたびに早朝の博多駅へ通っていました。しかし、ほどなく「明星」は急行に格下げされ、目標は未完のまま潰えてしまうことになりました…。

私個人の技術的な問題や、写真の保存状態などもあり、どれも今ひとつの写真ばかりですが、個人的な思い出として、押入れから引っ張り出してスキャンデータとして残すことにしました。撮影年月日を記録するところまで知恵が回っていなかったので、すべて撮影時期不明ですが、おおよそ88、89年頃のものです。撮影場所もすべて博多駅ホームです。

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ナハネフ22の「明星」。このころの20系臨時特急には、絵入りテールマークが使用されていました。もちろん、20系が第一線で使用されていた時代に絵入りマークはなく、このマークは24系タイプのものを拡大して作成したようです。


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同じくナハネフ22ですが、上とは異なり、マークは小さめのままで左右を延長したもの。下部の黄色や赤色の部分が見えるだけ、まだ本来のデザインに近いと言えますが、継ぎ目が目立って少々格好悪くなってます。また細かいところでは、テールマーク台座部分まで白帯が伸びているところが、上の写真の車両とも異なっています。もちろん車番など控えていません。


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なんだか手書き風のマーク。車両区の係員がちまちまと手作りしたのでは?と勝手に想像しています。本題とは関係ありませんが、隣の側線が一本撤去されており、篠栗線 (福北ゆたか線) 専用ホームの建設が始まっていたのがわかります。そのホームも今はもう無くなってしまいましたが…。


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こちらはナハネフ23。この頃の20系は塗装簡略化のため幕板部の帯が省略されていますが、一部のナハネフ23に至っては、妻面の帯が全部なくなっていました。なんだか旧型客車と見紛う雰囲気です。妻面帯あり「明星」の写真も撮ったのですが、激しくピンボケの写真しかなく、公開を断念してます。テールマークは左右に同じデザインのもので、書体は上記の「手書き風」ベースです。あたりが暗いのは、日が短い年末年始期間に撮ったため。ちなみに「明星」の博多駅到着は朝の5時40分頃で、寒い朝、4時台の始発列車にのって博多駅に向かうのは結構辛いものがありました。


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上り列車のカヤ21。上り列車が博多駅を発車するのは夜の10時半頃で、その頃の私にはかなり遅い時間で、早朝の下り列車に比べて、駅に行くのをためらいがちでした。もっとも、上りは最後尾が必ずカヤ21ということで、わざわざ駅に出向く楽しみも少なかったという事情もあります。


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一部の連休シーズン、特に年末年始などには、連休前半は下り列車のみ運行、後半は上り列車のみ運行、という運行形態となる時もありました。もちろん、片方向のみの運転では車両がすぐに足りなくなってしまうため、逆方向へも、客扱列車と同じスジで回送列車が運行されていました。回送列車では、テールマークのバックライトを消して運行されていました。


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20系の特徴のひとつである長円形の種別・行き先表示器。このかわいらしい表示器の存在が、私が20系のファンとなった理由のひとつでもあります。


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